2020年07月13日

クラシック向け、ジャズ・ロック向け/試聴用、モニター用、という区別

繊細な小さな音から迫力ある大きな音まで、それらは、単に音であるだけで、音そのものに音楽ジャンルがあるわけではない。
だから、その音を再生するヘッドフォンに音楽ジャンルの”向き不向き”もないのだと思っている。
音そのものが鳴って認識するのは、人間の脳。ここで初めてジャンルがどうの、という話になる。
なぜ、そうなるのかというと、ヘッドフォンの出来が悪いからで、音の表現に偏りが生じ、優劣の判断になる。
そんな基本的な判断よりも、やはり、それら表現の特性があって、”向き不向き”を信じ込んでいる人の何と多いことか(チコちゃん)
今感じている自分の感覚を信じてしまうのは、仕方のないところだけど。
モニター用に関しても、音の差別化に対する馴れがあって、違いを判断しやすいかどうか、というただそれだけの事。
音楽ではなく、”音”の判断でしかない。
本来は、多くの楽曲を聴き込んで出来た脳内のデータベースを駆使するためにも、音楽試聴用、モニター用という区別は悪い結果しか残さない。
プロが現場で使うという認識(ミキシング等)は、音楽としての必要性を求めない(音のバランス)という判断だろう。
音と音楽との区別は、必要という前提が大事。
そんな事は理解している、というなら、差別化も何ら問題ないわけだけど、そうではない気がしてね。

音の良さに関して、多くの人は、より高音・低音が出ているかという判断が多いと思うけど、一つ大事な点は、減衰していくような小さな音。
まるで、用が済んで消えていくかのように、切り捨てられてしまう感覚がある。
小さな繊細な音は、空間表現としても大事で、それは高周波と深い関係がある。
多くの人が認識する高音より更に上の領域なので、単に高音再生とは違うという認識が必要。
高周波の再生能力の低いヘッドフォンに馴れてしまえば、簡単に混同し、誤った考えを持つことになる。
ハイレゾもそうで、比較して、どうだ違うだろうというケースの殆どは、ミックスを変えて単に高音を上げているだけだったりする。
音は、聴覚というだけでなく、脳内で判断される、それは、数値として現われる事もなく、共有される領域での判断でもないので、難しいところ。

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2020年03月31日

音楽は聴くためのものか、演奏するためのものか、それとも・・・

作曲家は誰(何)のために曲を作っているのかという話。
作曲家目線(視点)で曲を聴いていると、何故その旋律なのか、何故その和声なのか、それを決定付ける要因を探ることになる。
クラシック音楽の作家たちは、今、私たちが捕らえる音楽の概念とは、かなり異なっていたはず。
録音物の無い時代、曲を売る手段は楽譜なわけだけど、それを買うのは、聴くためではなく演奏するため。
演奏しなければ聴くことはできないのだから、演奏=聴く、という事を改めて考えることもなかっただろう。
だけどね、そこは大きな違いがある。作り手の”何故”のなかには。
演奏は人間がやることなので、もちろん制約が出てくる。10本指の限界だけでなく、その動き方等。
合奏に於ては、それぞれの演奏家に配慮することも想像できる。あまりに僅かで面白みのないパートは嫌われるだろう。
どんな思惑があったにせよ、聴く側は、ただ、そこに音楽があるだけ。
時代は変わり、音楽は録音によって、演奏=再生、という新たな形を持つことになる。
それは、”聴く側は、ただ、そこに音楽があるだけ”という構造を継承することで、”何故”を見失うことになった。
個人がPCで音楽を作るなら、10本指の限界も、演奏に対する配慮もいらない。
そう、演奏家をスキップできる。昔の作曲家がやらないことをしてしまう。
それを悪いとするのも短絡的で、音楽そのものの中に演奏の制約があるのかという問題。
音楽が持つエネルギーは、いったい何なのか?
ただ、それだけで良いのかもしれない。
その先にあるのが、演奏家だけでなく、聴き手さえもスキップしてしまうことでも。
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音楽は聴くためのものか、演奏するためのものか、それとも・・・

作曲家は誰(何)のために曲を作っているのかという話。
作曲家目線(視点)で曲を聴いていると、何故その旋律なのか、何故その和声なのか、それを決定付ける要因を探ることになる。
クラシック音楽の作家たちは、今、私たちが捕らえる音楽の概念とは、かなり異なっていたはず。
録音物の無い時代、曲を売る手段は楽譜なわけだけど、それを買うのは、聴くためではなく演奏するため。
演奏しなければ聴くことはできないのだから、演奏=聴く、という事を改めて考えることもなかっただろう。
だけどね、そこは大きな違いがある。作り手の”何故”のなかには。
演奏は人間がやることなので、もちろん制約が出てくる。10本指の限界だけでなく、その動き方等。
合奏に於ては、それぞれの演奏家に配慮することも想像できる。あまりに僅かで面白みのないパートは嫌われるだろう。
どんな思惑があったにせよ、聴く側は、ただ、そこに音楽があるだけ。
時代は変わり、音楽は録音によって、演奏=再生、という新たな形を持つことになる。
それは、”聴く側は、ただ、そこに音楽があるだけ”という構造を継承することで、”何故”を見失うことになった。
個人がPCで音楽を作るなら、10本指の限界も、演奏に対する配慮もいらない。
そう、演奏家をスキップできる。昔の作曲家がやらないことをしてしまう。
それを悪いとするのも短絡的で、音楽そのものの中に演奏の制約があるのかという問題。
音楽が持つエネルギーは、いったい何なのか?
ただ、それだけで良いのかもしれない。
その先にあるのが、演奏家だけでなく、聴き手さえもスキップしてしまうことでも。
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音楽は聴くためのものか、演奏するためのものか、それとも・・・

作曲家は誰(何)のために曲を作っているのかという話。
作曲家目線(視点)で曲を聴いていると、何故その旋律なのか、何故その和声なのか、それを決定付ける要因を探ることになる。
クラシック音楽の作家たちは、今、私たちが捕らえる音楽の概念とは、かなり異なっていたはず。
録音物の無い時代、曲を売る手段は楽譜なわけだけど、それを買うのは、聴くためではなく演奏するため。
演奏しなければ聴くことはできないのだから、演奏=聴く、という事を改めて考えることもなかっただろう。
だけどね、そこは大きな違いがある。作り手の”何故”のなかには。
演奏は人間がやることなので、もちろん制約が出てくる。10本指の限界だけでなく、その動き方等。
合奏に於ては、それぞれの演奏家に配慮することも想像できる。あまりに僅かで面白みのないパートは嫌われるだろう。
どんな思惑があったにせよ、聴く側は、ただ、そこに音楽があるだけ。
時代は変わり、音楽は録音によって、演奏=再生、という新たな形を持つことになる。
それは、”聴く側は、ただ、そこに音楽があるだけ”という構造を継承することで、”何故”を見失うことになった。
個人がPCで音楽を作るなら、10本指の限界も、演奏に対する配慮もいらない。
そう、演奏家をスキップできる。昔の作曲家がやらないことをしてしまう。
それを悪いとするのも短絡的で、音楽そのものの中に演奏の制約があるのかという問題。
音楽が持つエネルギーは、いったい何なのか?
ただ、それだけで良いのかもしれない。
その先にあるのが、演奏家だけでなく、聴き手さえもスキップしてしまうことでも。
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音楽は聴くためのものか、演奏するためのものか、それとも・・・

作曲家は誰(何)のために曲を作っているのかという話。
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クラシック音楽の作家たちは、今、私たちが捕らえる音楽の概念とは、かなり異なっていたはず。
録音物の無い時代、曲を売る手段は楽譜なわけだけど、それを買うのは、聴くためではなく演奏するため。
演奏しなければ聴くことはできないのだから、演奏=聴く、という事を改めて考えることもなかっただろう。
だけどね、そこは大きな違いがある。作り手の”何故”のなかには。
演奏は人間がやることなので、もちろん制約が出てくる。10本指の限界だけでなく、その動き方等。
合奏に於ては、それぞれの演奏家に配慮することも想像できる。あまりに僅かで面白みのないパートは嫌われるだろう。
どんな思惑があったにせよ、聴く側は、ただ、そこに音楽があるだけ。
時代は変わり、音楽は録音によって、演奏=再生、という新たな形を持つことになる。
それは、”聴く側は、ただ、そこに音楽があるだけ”という構造を継承することで、”何故”を見失うことになった。
個人がPCで音楽を作るなら、10本指の限界も、演奏に対する配慮もいらない。
そう、演奏家をスキップできる。昔の作曲家がやらないことをしてしまう。
それを悪いとするのも短絡的で、音楽そのものの中に演奏の制約があるのかという問題。
音楽が持つエネルギーは、いったい何なのか?
ただ、それだけで良いのかもしれない。
その先にあるのが、演奏家だけでなく、聴き手さえもスキップしてしまうことでも。
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作曲家は誰(何)のために曲を作っているのかという話。
作曲家目線(視点)で曲を聴いていると、何故その旋律なのか、何故その和声なのか、それを決定付ける要因を探ることになる。
クラシック音楽の作家たちは、今、私たちが捕らえる音楽の概念とは、かなり異なっていたはず。
録音物の無い時代、曲を売る手段は楽譜なわけだけど、それを買うのは、聴くためではなく演奏するため。
演奏しなければ聴くことはできないのだから、演奏=聴く、という事を改めて考えることもなかっただろう。
だけどね、そこは大きな違いがある。作り手の”何故”のなかには。
演奏は人間がやることなので、もちろん制約が出てくる。10本指の限界だけでなく、その動き方等。
合奏に於ては、それぞれの演奏家に配慮することも想像できる。あまりに僅かで面白みのないパートは嫌われるだろう。
どんな思惑があったにせよ、聴く側は、ただ、そこに音楽があるだけ。
時代は変わり、音楽は録音によって、演奏=再生、という新たな形を持つことになる。
それは、”聴く側は、ただ、そこに音楽があるだけ”という構造を継承することで、”何故”を見失うことになった。
個人がPCで音楽を作るなら、10本指の限界も、演奏に対する配慮もいらない。
そう、演奏家をスキップできる。昔の作曲家がやらないことをしてしまう。
それを悪いとするのも短絡的で、音楽そのものの中に演奏の制約があるのかという問題。
音楽が持つエネルギーは、いったい何なのか?
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作曲家は誰(何)のために曲を作っているのかという話。
作曲家目線(視点)で曲を聴いていると、何故その旋律なのか、何故その和声なのか、それを決定付ける要因を探ることになる。
クラシック音楽の作家たちは、今、私たちが捕らえる音楽の概念とは、かなり異なっていたはず。
録音物の無い時代、曲を売る手段は楽譜なわけだけど、それを買うのは、聴くためではなく演奏するため。
演奏しなければ聴くことはできないのだから、演奏=聴く、という事を改めて考えることもなかっただろう。
だけどね、そこは大きな違いがある。作り手の”何故”のなかには。
演奏は人間がやることなので、もちろん制約が出てくる。10本指の限界だけでなく、その動き方等。
合奏に於ては、それぞれの演奏家に配慮することも想像できる。あまりに僅かで面白みのないパートは嫌われるだろう。
どんな思惑があったにせよ、聴く側は、ただ、そこに音楽があるだけ。
時代は変わり、音楽は録音によって、演奏=再生、という新たな形を持つことになる。
それは、”聴く側は、ただ、そこに音楽があるだけ”という構造を継承することで、”何故”を見失うことになった。
個人がPCで音楽を作るなら、10本指の限界も、演奏に対する配慮もいらない。
そう、演奏家をスキップできる。昔の作曲家がやらないことをしてしまう。
それを悪いとするのも短絡的で、音楽そのものの中に演奏の制約があるのかという問題。
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作曲家は誰(何)のために曲を作っているのかという話。
作曲家目線(視点)で曲を聴いていると、何故その旋律なのか、何故その和声なのか、それを決定付ける要因を探ることになる。
クラシック音楽の作家たちは、今、私たちが捕らえる音楽の概念とは、かなり異なっていたはず。
録音物の無い時代、曲を売る手段は楽譜なわけだけど、それを買うのは、聴くためではなく演奏するため。
演奏しなければ聴くことはできないのだから、演奏=聴く、という事を改めて考えることもなかっただろう。
だけどね、そこは大きな違いがある。作り手の”何故”のなかには。
演奏は人間がやることなので、もちろん制約が出てくる。10本指の限界だけでなく、その動き方等。
合奏に於ては、それぞれの演奏家に配慮することも想像できる。あまりに僅かで面白みのないパートは嫌われるだろう。
どんな思惑があったにせよ、聴く側は、ただ、そこに音楽があるだけ。
時代は変わり、音楽は録音によって、演奏=再生、という新たな形を持つことになる。
それは、”聴く側は、ただ、そこに音楽があるだけ”という構造を継承することで、”何故”を見失うことになった。
個人がPCで音楽を作るなら、10本指の限界も、演奏に対する配慮もいらない。
そう、演奏家をスキップできる。昔の作曲家がやらないことをしてしまう。
それを悪いとするのも短絡的で、音楽そのものの中に演奏の制約があるのかという問題。
音楽が持つエネルギーは、いったい何なのか?
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2020年01月19日

昨年は・・・

荷作り半年、段ボール百個以上、トラック2台で引っ越し、東京を離れた。
不可能を可能にしたような気持ち。
一番驚いたのは、音が良くなった事。電気の質なんだね。東京の電気は汚れている。
車の通る音が少なく静か。風は部屋の中を通り、日当たりも良くなった。
中古のMIDIキーボードを買い、数年続いたレ、ファ、シの音が出ない環境から脱出する。


posted by musf at 13:49 | Comment(0) | Music Creation | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする



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